昭和48年6月2日 朝の御理解
佐田恵介
御神訓
「一 やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよ」
(5月2日?)御理解を頂く前にね、まず姿勢を作らにゃいけません。眠たいときには、膝でもこういっちょつねってね、(笑)御理解を頂く姿勢を作らにゃいけません。せっかく頂く御理解ですから。もー、それこそ一声千両とでも申しましょうか。もー、ありがたく頂いて帰れば、船にも車にも積めんほどの 御神徳のあるお話ですから、眠り半分で頂いちゃもったいない。もぉ、お互いがおかげ頂きたい。お徳を受けたい のですから、ね。ですから、あの御理解を頂く前にゃ眠かろう。けれどもあの、もひとつお??膝をつねってからでも、ね、一つ御理解を頂く姿勢を作ってください。あたくしも一生懸命ですから、皆さんもやっぱ一生懸命頂いてもらわにゃいけん。ね、どうぞ
御神訓 一 やれ痛やという心で、ありがたし、今みかげをという心になれよと。
やれ痛やという事は、お互いが感じておる難儀の事だと、ね。お互いがさまざまな 難儀 を感じておる。お金のない人。ないだけじゃない、借金をいっぱい持っておる人。体が人並みではない、不健康である人。家庭的な、さまざまな不如意な問題。ね、そういう、例えば 問題 をここでは、やれ痛やというふうに訴えておられます?、ね。ですから、その事に難儀をかん、難儀を感ずる時です。痛やというのではなくて、その難儀を難儀と感ぜんですむほどしの心が産まれてこなければ、有り難いという心は産まれてまいりませんよね。ね。 やれ痛や、今みかげを という、ね。例えばそれが、どんな、あー、難儀な問題 でありましても、ね、おかげで信心が出来ますという、信心の喜びというものを感じたら、もうそれは難じゃないです。おかげです、ね。 問題はだから、ね、今ありがたし、ね、今みがげをという心になる為の、信心修行をまずさし、さしてもら????。どんな場合であっても、おかげと、ありがたしと感じれれる。 あたくしは思うんですけどもね、皆さん、あのー、合楽の教会と一緒に、共に、足並みをそろえておかげを頂いていくという気になったら、ありがたいです、ね。例えばなら、教会長であるあたくしを思うて下さい。えー、医者は、あたくしの体を、おー、糖尿病と腎臓だといっております。安静を しつ、しつよう(必要?)と いうとります。けれどもあたくしはその、糖尿病と腎臓という事に対して、ひとっつもそれを難儀と感じてないです。そりゃいろんな症状があります。????(皆さん)もご承知の、たくさんのお水を頂くときなんか、もうありがたいありがたい。もうこげなありがたいお おめ、ほんとに、と、そのお水そのものがありがたい。も、病気のことよりも、ほんとです。だから腎臓にはいいか。腎臓と糖尿病というなら、食べ物でも、医学的にいうたら、反対のもんですから大変やりにくいと言われておる。ところが、あたくしゃ、腎臓に効くとか、糖尿病に悪いとか、あー、どちら こてしと?。もー、も、それこそ、食膳にのぼってくる食事を全部 ありが足しと受けております。そりゃなるほど、おー、夕べの、おー、お月次祭を奉仕させて頂く時の、ちょっと一時間ばっかり前に、時々あんな事があります。もお、そわ、たいーへ、も、それこそ名状しがたいきつさです。もう、手ばこう、腕ば上にあぎゅうごとなかごときついです。ね、それでもで、だからそういう時に、んなら、たとえばやれ痛やを感じてもです。そこの所を、あたく、そういう時には、神様に心を向けて一心におすがりして。あたくしあの霊神様へご挨拶を申し上げる時に、その事を。も、今日はもうとっても 体がきつうございますと。今から御祭を 奉仕さしてもらわなければなりません。どうぞ元気わ、与えて下さい、というて、霊神様、その 先輩のね、御霊様たちにおすがりさせて頂いておりましたら、御神眼にあの、指輪を頂きました。どうも、プラチナのような指輪です。その指輪にですね、真っ青の、青い翡翠という宝石がありますね。あの宝石を、の玉を、も、見事な宝石の玉を、これにこ、指輪にはめてくださるとこを頂いた。ね。 輪ということは、和賀心の和でしょう。ね、平和の和でしょう、この和という事。だから、心は穏やかでありましても、やはり喜びの心がなからなければ和賀心になりません、和賀心と。ね、あたくしゃ夕べ皆さんにも聞いて頂きましたけれども、和賀心の賀の心というのは、教祖様は祝い喜ぶ心と教えられるが、その祝い喜ぶという心は、どういう信心から生まれてくるかというとです。もうそこに難儀を感ずる。けれども、そこを神様におしてです、ね。も、も、へとへとでありましても、そこを へこたれずに、神様へいよいよ打ち向かう心です。その向こうに、はぁー、おかげを頂いてありがたしという心が生まれてくるです。あたしゃ、そ、夕べきつかった、その事をれ、霊神様にお願いさせて頂きよりましたら、その翡翠の玉。翡翠、あ、青という事は、色々な、ね、赤 という色を信心の熱情と。紫は安心、ね。きなという字は、丁度今中という意味の、意味がある、ね。青い色というのは元気な心と教えて下さる。その元気な、しかも宝石にも似たような たばこ?入れて下さった。そして御祈念を終わるころにです、もう、なんというですかね、あの、喜びの血というすか?感激の血というのが、こ、体全身にずーっとよみがえってくるような感じ。おかげで、ま、へいぜい通りの御祭を奉仕さしてもらい、あして、昨日は元気いっぱいの御説教も皆さんに聞いて頂きました。夕べはもぉー、休まして頂きましたけども、殆ど休みませんでした。それはなぜかというと、夕べの御理解はおかげを受けたい、御徳を受けたい、その全部がです。おかげを受けたい人にはおかげ、御徳を受けたい人には御徳の受けられるその道をです、もー、実に克明に 御話下さった御理解だった。も、ほんとにそれを思わせて頂いておりましたら、神様がな、それを思うたんべんに、はー、ほんとに今晩の御説教は、も、いよいよ御徳を受ける 御話だ。おかげを頂きたい という人、御徳を受けたい人が、夕べのあの御理解を、本気で 素直に 受けていったならです、必ずおかげが受けられる 御徳の世界に進んでいかれるというほどしの御理解でした。だったなという事を、そのじぶんの話した事を繰り返し繰り返し思わせて頂く たんべんに、とこ、床柱においさみがつきました。夕べの御理解はだからもう一遍、皆さん頂かれるといいですよ。あの御理解にきゅ、きゅわまってるんです、おかげを受ける事も御徳を受ける事も。ね、しかも、純粋な心、素直な心をもってうけんなら、けっして難しい事は申しませんでしたでしょ。 あたくしが、例えば、あたくしが、腎臓 病、又は糖尿病。これを、信心がないならば、ほんとに難儀な事だなー、困った事だなー、早く全快したいな。人並みのものが食べたいな、飲みたいなというでしょう。けども、わたくしは、人並みのものを頂かしてもらい、飲ませて頂き、それを糖尿病とも、腎臓という難儀とも感じてない。そりゃ病気はありま。けれどもそれをね、結局、おかげでありがたしという 信心 で受けてる。こりゃま、その意味を申しますと、糖尿病であるおかげで、わたくしが腎臓病であるおかげで、朝から晩まで、あい?教会内で御用が出来てるんです、わたくしは。もう、そりゃもう、そのことをいうならもう、その糖尿病のおかげでっていうことを、腎臓病のおかげでということを、たくさん感じます。そこ、そこにはです、んならば、やれ痛や というその、痛やというものすら感じてない(でしょ?)。難儀でしょ。ね、これは、わたくしのいうなら責任にかかっておる。ね、今、合楽教会が五千万 位な借金を持っておりますでしょ。ほりゃ、も、五千万もの借金を持って頭が痛い。あたしがころっといったなら、後はどうなるじゃろか。もう、そういう事をあたくしはさらさら考えていないです。皆さんどうですか。借金を、ね。もう、ですからもう、その日その日が其の日暮し(そのひぐらし)なんです、教会は。ね、ただ、んなら、皆さんと違う所はで。おなじ其の日暮らしでも、百円の其の日暮しの人もありゃー、千円の其の日暮しの人もある。万円の、いわば其の日暮しの人もある。だからも、この借金が??、とりにあたまが重たいとも感じていない。この病気がいっちょ治らなければ、あー、おかげとは思わんということじゃない。も、その時点時点を、有り難うしてたまらんという 事ですから、もう、いやら、やれ痛やというものは全然感じら。あたしゃ、今日はここん所皆さん、?ち、聞いて頂きたいです。ね、だから、たとえばな、ここの一しぎょうせい(修行生)にいたしましょう。んなら、一しぎょうせい(修行生)の方たちが一生懸命御用頂いて、日に日に食べる事、着る事に、それなりではあるけれど事欠がないというのは、あたしとおんーなし事なんですよ、皆さん。ね、や、むしろ借金をもたないだけ まだ ましなんです。ね、ただ、その、ね、段階が違うだけです、ね。ま、ここで借金を持っておられるちゃどなたでしょうか、おんなさ、そ、おんなさらん ですけれども、ね、たとえていうならば、久富勇さんがおんなさいます、夫婦、ね。たくさん借金をもっとんなさいます。そして、しかもお二人が、あー、お百姓の仕事がでけないくらいに、体がこんなによおあんなさいます。はー、もいっちょここば助けちもらわにゃん。も、どうでんこうでん借金払いばはよさしてもらわにゃん。てんなんてん思とんなら、も、きつしてこたえんでしょ。だから、問題は、あたしと一緒におかげを頂くという気になったら楽です。今日、ここん所を皆さん頂いて頂きたいです。ただね、百円の其の日暮しと千円の其の日暮しと違うだけなんですよ。ね。ですからね、おかげ急ぎとかね、慌てる事はひとっつもいらんです。もう、合楽の教会と共に、ね、親先生と共におかげを頂いていくという気になればいいです。ね、そうでしょうが。借金は皆さん以上のしゃっ、ね、大きな其の日暮しである証拠に、借金も、皆さんい、おそらく日本一という教会の、日本一というなら、借金を持っておるという意味においてなら、合楽が、日本一の借金を持っておる教会だとあたしゃ思います。絶対まずないでしょう。銀行が教会に貸しませんもん、五千万てんなんてん金を。宗教関係に。おかげを頂いて合楽は、その借金させて頂いとる。けれ(え?)ども、借金させてもらっとるけんというて、頭が重い事もなかなければ、肩が、おむたいという事もない。やあ?それを難儀と感じていない。糖尿病も糖尿病と思うていない。腎臓も腎臓と思うていない。勇さん達ご夫婦ん所もね、そこ、そういう頂き方に、今日からならにゃいかんです。はよ楽になりたい。早く健康になりたい。早く借金払いをしたいと。いんや、もう合楽の教会と共に、歩いてゆくんだという事です。合楽の 借金払いが出来たときにゃ自分たちの借金払いもでけるんだと。合楽の親先生の病気が治った時、自分たちの病気も治るんだ。ね、それなりね?いちんちだって食べなかったとか、という事はなかったでしょう。着るときに、着る着物がなかちいう事もなかったでしょう。春秋夏は 秋冬、その時はその時なりの、着物も着せてもらや、食べ物も食べさせて頂いて おるでしょう。 ね、だから 合楽と共に、教会と共におかげを頂いてゆくという気にならなければです、今日のここの御理解はわからん。ね、それでも、たまにはね、やれ痛やを感ずる事がある。例えば、なら、も、これは糖尿病独特の、おー、ものだと思うんですけれどもね、それがふっとでてくる。もうきつうてたまらんという時が出来てく。そういう時には、おすがりをするというん。ね、だから そのおすがりをする。そういう難儀を超越した、超えた向こうにしか、賀の心、喜びの心はないんだと思うたら、これが又、これまたありがたいです。問題はその、はー、も、今日はきつしてこたえんけんで、御祭りは誰か仕えちくれんの。あたしゃ今日は休む、というような生き方ではだからいけないというこ。 今申します、夕べ御説教(おせっきょう)の事をずーっと繰り返し繰り返し思わせて頂いて、ははー、夕べのごり、あの御説教(おせっきょう)の中にで、おかげを受けるという事、徳を受けてゆく。その道を、このようにも正確に、間違いなく 教えて頂いた。今日はあたくしは、さ、あのー、みつ、幹三郎に、夕べの御理解が、あの、ほどかないように。もう一遍も二編もあれ聞きたいから、とっといてくれというて、今朝から、まー、言ったことでございますけども、皆さんももう一遍頂いてごらんなさい。ね、もう、あれにき、おと、しかもみやすーう 御徳が受けていけれる、徳が受けていけれる。純粋な心でき、頂きさいすれば。夕べの御説教(ごせっきょう)はそういうご、御説教(ごせっきょう)だったんです、ね。ですから、その事を思うたら、ほんとに眠られなかったが、あー、今朝、そうですね、えー、えつも三時 一寸すぎには起きますけれども、もー、あたくしの、(す?)すんでおる時計が三時半。今日家内に起こされた。ちょっと休んだ。そ、やすんどる間に御夢を頂いた。それはどういう事かというと、あのー、合楽のいくる、幾人かのご信者さんがなんか、宴会かなんかに呼ばれたようで、もぉー、食べ散らかし飲み散らかして、も、ぐでんぐでんになっておる人もありゃ、もぉー、おごっつぉなんかでも、も、こ、取り散らかしてある。それはどういう事かというと、教会よりも、先におかげを頂こうと思うておる人達です。先にままになろうと思うておる人達。も、食べ散らかしとっとです、???。ええですか。ね。そして、そのあとに、あたくし共が招待を受けておる。だからそこの場を通り抜けて向こうに行かせて頂いて、招待を受けておる、うー、えん、まあ、宴会場か。そういう所にあたくしどんがまだ行っておる訳です。そしてわたくしと久富繁雄さんと二人で行って、まあみんなが飲みちらけえたり、食べちらけえたりしてから、はー、勿体無い頂き方してんなー。も、そういうね、教会よりも先に、教会よりも先におかげを頂こう。まず自分がおかげを頂いてからてんなんてんていう人はおかげを食べちらけぇとる。おかげが粗末になっとるです。ね、だから今日あたくしは、ここそこん所をで。教会と共に、どうぞ、おかげを頂こうという気になって下さい。それは違いますよ。ね、例えば、ね、一万円の其の日暮しと、そ、千円の其の日暮しは違うけども、そのへ、其の日暮しにおいては変わりはないということ。いいですか。あたくしの健康の事。又ここでたくさん借金を持っておること。それを、あたくしはひとっつも、借金とも、か、病気と感じていないほどしの おかげを頂いておるという事のわかる信心がです、ありがたしという心??。今みかげを頂いておる時、今こそ力を頂いておる時だという事なんで(す?)。 ね。そして、又、その下のほの、みんなが飲みちらけたり、食べちらけたりしと(う?)下に、又道のある所の道に出て、そこをずーッと、重雄さんと二人で、えー、まー、行きよっ。だから、重雄さんはあたしと一緒におかげを頂こう。あい、合楽と共におかげを頂こうという気持ちなんでしょう。あたくしと一緒にずっとあるいていきおっ。そしたら、あのー、そこにじでんしゃ(自転車)があったです。そしたらもう、つるつるあたくしが横からはずれちから、じでんしゃに乗ってから、こういこ、行こうとしなさいますもん。そでも、大分向こうにいちょる?、重雄さん重雄さん、そげーんおよたれんでんあんたあたしと一緒によかろが、ていうたら、はいちちからじでんしゃを押しながらあたしと共に行く所を頂いた。じでんしゃという事は、自分で先に、という事なんです。ね。例えば、重雄さんのようにあたしと共にあって、もう、おそらくそういうしかし考えはなかっでしょうけど、今日の御理解頂いて、改めてです、あたしゃ皆さんに言いたいことはね、合楽と共におかげを頂くという気になってください。だから、今日食べられておる、今日おかげを頂いておるならもうそれ、合楽とおんなじなんです。そりゃ借金を持っておってもそりゃもう借金じゃないです。病気をしておっても、病気と思いなさんなって。なに、その日その日が、日暮がでけておるとするならばですよ。ね、そして、合楽の借金がなくなるころには自分の借金もなくなるんだと、いうような気持ちで、じでんしゃで急ぐこつもなんもいらん。重雄さん重雄さん、そげん急ぐこつがいろうの、も、じでんしゃ。あ、そうですか、ち????。やっぱじでんしゃでちった、はよいくごたる、ね。誰やら彼やら、おかげを受け取る姿を見ると、やっぱ、一時(いっとき)でん早うおかげを頂きたいという心が動いてくる訳です。??ぞ皆さんね、合楽と共に、おかげを頂くという気になって下さい。ですから、最近あたくしが申しとりますようにね、いやる、阿倍野の教会にあやからして頂いて、頂いておる、ここいくんちかの御理解ですけれども、ね。とにかく、合楽教会の借金払い。合楽教会、親先生のご健康。いうならば、合楽教会を中心として、合楽がおかげを頂く時に、あたくし共も一緒におかげが頂けれるんだ。そこ、力を頂いていく内にです、ね。百円の其の日暮しが、五百円の其の日暮しになるおかげを頂いていったらええ。五百円の其の日暮しが、千円の其の日暮しが出けるようなおかげを頂いていったらええ。ああ、毎日毎日其の日暮しでいっちょんのこらん。というような寂しい思いやらはもさらさら、おかげの受けられない元で、そげな風な思い方をしよるから、教会よりも、はよ先におかげを頂きたいというような事になって、じでんしゃで踏まんならん様な事になってくるのです。 ね。どうぞ、合楽と共に、一つおかげを頂くという気になって下さい。 はー、この借金の事が頭にいつもあるといったような事では絶対おかげにならんです。借金を持っておる人は、ま、合楽と共にある事実をです。一つ実感してありがたいなあと思うて下さい。病気をしておる人は、親先生とおんなじ、ね、いうなら修行さして頂いとると思うて下さい。そこでです、そういう修行がたのしゅうありがとならにゃいけんです。楽しゅうならなければ。今日あたし御神前に出らして頂きましたら、あの、おー、文句はよく知りませんけえども、山男の歌かなんか?いうのがありましょうが、流行歌(りゅうこううた)に。前にはやりました。山男の嫁さんにはなるなと、山男の、おー、嫁さんになると、若後家さんにならにゃんぞ、といったような文句の歌でしたね。あのリズムですかね、(A面終わり)
B面
五百円の其の日暮しが、千円の其の日暮しが出けるようなおかげを頂いていったらええ。ああ、毎日毎日其の日暮しでいっちょんのこらん。というような寂しい思いやらはもさらさら、おかげの受けられない元で、そげな風な思い方をしよるから、教会よりも、はよ先におかげを頂きたいというような事になって、じでんしゃで踏まんならん様な事になってくるのです。 ね。どうぞ、合楽と共に、一つおかげを頂くという気になって下さい。 はー、この借金の事が頭にいつもあるといったような事では絶対おかげにならんです。借金を持っておる人は、ま、合楽と共にある事実をです。一つ実感してありがたいなあと思うて下さい。病気をしておる人は、親先生とおんなじ、ね、いうなら修行さして頂いとると思うて下さい。そこでです、そういう修行がたのしゅう、ありがとならにゃいけんです。楽しゅうならなければ。今日あたし御神前に出らして頂きましたら、あの、おー、文句はよく知りませんけえども、山男の歌かなんか?いうのがありましょうが、流行歌(りゅうこううた)に。前にはやりました。山男の嫁さんにはなるなと、山男の、おー、嫁さんになると、若後家さんにならにゃんぞ、といったような文句の歌でしたね。あのリズムですかね、あの旋律があたくしの耳に響いてくるんですよ。ね、もうほんとに、命がけで、あ、山に登る。ばか。ふつから考えたらばかんごとある。しかも大きなリュックサックを担いで。どおがよかじゃろかと思うごとある。信心はそげなん。信心は山登りとおなし事です。ね、重いリュックかついで、いうな、難儀を担いで。も、難儀を難儀とも感じていない。ね、それこそ、ね、後家になったと思うて、というような立教神伝ところがありま。もうそれは、家内も大事、子供も大事、親も大事じゃけども、そういうものも、振り捨てれれるほどしの 勇気が出るんです、信心というもの。ね。あたくしは その 事き、聞かしてもらって、いよいよ信心な好きにならなければいけないなと思いました。好きんなんなきゃ、今日あたしがいうとこがわかりません。早う、いちんちでん早う借金払いばさす たいという心は、もう合楽よりも先におかげば頂こうと思うとる心です。慌てるこたいりません。どから問題は、合楽の事が一生懸命に願われさいすればおかげだということです。ね。合楽と共に歩いておる。合楽と共にしぎょうしておる。そういう気になって下さい。けども、そこのしぎょうの過程が、去年の百円の、其の日暮しじゃったけれども、今年は二百円の其の日暮しがでけておるという事実をです。ね。体験させて頂きながらの信心。昨日、午後の、おー、奉仕 を、終わった でした。幹三郎と、おー、久保山君と、二人でこに?御届けにきました。うーん、この頃から○少の幹部二人、豊治君と昌美君と を連れて幹三郎、この、夜中に、どっか筑後川の橋の下に御祈念をしげに、あの、川の水がどんどん流れておる所に、あの、こえ?取りに行くで、寒ごえ?を取りに行くでしょ。川ん水がどんどん流れておっとこで、大祓(おおばらい)をあげる。とてん すばらしいんですよね。とにかくあの、川の流れよるもっと大きな声で大祓(おおばらい)をあげる。そういうしぎょうを、おー、も十日あまりしておるんだそうです。ところがです、先日ね、ちょーどそ?夜中に何か、あー、警察の方が、の、おー、網を張ってあったで。なんかあ なんかがおこったん。事件がおこったかなんかでしょう。ほぅで、若い三人が自動車に乗って、はまに、やっ やって来たもんですからね、こりゃも、いよいよろくな事、悪かこっす すっとに違いなと。三人なら捕まえられとる訳です。そして、も 絞られるしこ絞られ たごたる。そして、昌美君が運転しとったのが、まあだあの、運転免許とったばかりでですね、自動車なんか、こうはっとかないけんとを、はっとらなかったそうです。そーで、連れて行かれてから、も、散々絞られて、それが、三人が三人とももの言いきらんとですもんね。こりゃも不思議。もー、ほんーとにも、どもりまわってですね、おわ、お話しがでけんとですよ、三人ながら。ほりでんまー、そのおごられた挙句ですて、も、合楽の金光様ち、そしてごして?ふしぎよう?にきとっちいう事がようやくわかったらしいんです。ところがその調べた警察官の中にです、田主丸教会の総代さんの娘婿さんという人がおったっで(す?)。その すの?妹さんというのが、あのー、直子と友達で、あのー、高芝さんとこの親戚にもあたりますかね。祖に人がいつも遊びに来よった。が、高校時代に。あぁ、そんなら合楽の教会ならここじゃないですか。ああ、そうです。初めて、釈放されたわけ。ね、そして、もう、もちろん、あの、おー、ま、、あー、ほんとにし、こ、しぎょうだということがわかったもんですから、ね。えー、ま、ちい?ぐらいで帰らして頂いたと。ほんとに僕たちがあの御届けもせんなしぎょうしよったけんで、えー、うー、これからは、お届けをしてからしぎょうでもさしてもらわな。けれども幹三郎君、こりゃありがたいねー、てあたくしは、もうほんとにね、信心が好きにならにゃそげなしぎょうはしゅうごつなかです。若いとっから信心のです、夜中へ、夜中にですよ。しかも、ちっご川の橋の下まで行って、そして、大祓(おおばらい)十巻なら十巻上げて帰ってくると。それが十日目の、例えば満願、ちゅ訳でもなかったろうけれどもですね。丁度そのころに、その、警察の人達がこうやって網をはっととにひっかかった。そせ捕まえられ。そして、もうあれがものがぱらぱらっといっけとるなら、すぐわかるとじゃろばってん、三人ながらが物言いきらんとじゃ?。それまでとおーと、いっぱっていかれてから、尋問されて、しろらべられて、合楽教 会という事がようやく言えた。そしてしぎょうにきた事がわかった。そこに、その調べた人が、その、田主丸の総代さんの娘婿さんであったという事。そんなら、なんなんちゅとは知っと。はー、そりゃ、僕んとこずっと遊び来よりました。というような事からわかった。ね、あたくしは信心はね、好き。だから、もうあげなこっちゃけんやむうちゅは、ゆわんです。叉、もっともっとそのしぎょうを続けていく。続けていくというが、そういうしぎょうに取り組んでいく事でしょうばい。あ、あの人達は。ね、信心が好きにならなきゃ、それこそ山男にならなければ。ね、今日あたくしが申しましたような所は、頂かれない。やれ痛やと、その痛やを感じないほどしに、ありがたいものが生まれてきて、初めて、ね、みかげをという心が生まれてくる。今みかげをという心。今こそおかげを頂いておるという心が生まれてくるのです。ね、どうぞ、みんな、一つ、合楽よりも先、先駆けておかげを頂こうてんなんてん思うて、よし頂いても、あたくしが今朝御夢を頂いておる人たちなんかは、先駆けておかげを頂いておる。ほほー、あの人達は参りもさっしゃらんばってん、そげんとーどしか参んなさらんばってん、どんどんおかげ頂きござるという人は、喪、絶対(ぜっーたい)おかげん食べ散らかしよる奴どっです?。それではない。合楽と共にです、借金が減っていきゃえい。合楽と共に、親先生と共に、健康になっていきゃいい。だからもうそりゃ、病気でもなからなければ借金でもない。いや、それは、やれ痛やではない。それはもうみかげであるとして頂だい。合楽と共に、おかげを頂いていく。為には、んなら、おかげを頂きたいならば頂きたいほどです、合楽のおかげの成就を、願う事が先決であるという事がわかるですね、どうぞ。